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生活と映画 cut.3 「犯人はヤス」その奥にあるもの。

生活と映画

当コラムはURBAN RESEARCH MEDIAにて掲載された内容です。

文中に登場する作品

1

「ポートピア連続殺人事件」

ミステリー不朽の名作。ゲームだけど。

ポートピア連続殺人事件

ポートピア連続殺人事件
発売日:1985.11.29
希望小売価格:5,500円+税

https://www.jp.square-enix.com/game/detail/portpia/

2

「猿の惑星」

リブート新シリーズも完結。今回はオリジナル作の話。

猿の惑星

猿の惑星

http://www.foxjapan.com/planet-of-the-apes

3

「ターミネーター2」

いろいろバージョン出てるけど劇場公開版がいいね。

ターミネーター2

ターミネーター2 劇場公開版〈DTS〉[『T3』劇場公開記念バージョン]
販売元:パイオニアLDC

http://db.pldc.co.jp/search/view_data.php?softid=166275

おまけ

「ターミネーター:ニュー・フェイト」

新しい登場人物達のアクションがとにかく素晴らしいです。

ターミネーター:ニュー・フェイト

ターミネーター:ニュー・フェイト

http://www.foxmovies-jp.com/terminator/theater/

あなたは「犯人はヤス」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

1983年にPC版がリリースされ、2年後の1985年にファミコンに移植。60万本を売り上げた家庭用ゲーム機初の本格ミステリーアドベンチャーゲームだ。主人公は刑事となって相棒の真野康彦(まのやすひこ:通称ヤス)と共に神戸で起きた資産家密室殺人の犯人を追うが、容疑者が次々と謎の死を遂げ、事態は連続殺人事件へと発展していく。

ゲームはコマンド選択式で相棒のヤスに命令をする形で進む。「ばしょいどう」「ひとに きけ」「なにか とれ」と指示を出しながら真犯人を見つけ出すのが目的だ。

第一の被害者からしてサラ金会社の社長、という本作はゲーム中に出てくる登場人物の多くが詐欺や多重債務、麻薬密売など、後ろ暗い世界と関わりがあり、小学生には少し難解なそのストーリーに僕は夢中になった。

物語の真相はこうだ。

被害者である資産家 山川耕造は過去に悪どい事業で荒稼ぎしており、多くの被害者を生み出していた。第一発見者である秘書のふみえは実はその詐欺被害で両親が自殺しており、復讐のタイミングを狙っていたことが判明する。しかし彼女にはアリバイがあり、あくまで共謀者に過ぎず、真犯人は別にいた。

さらなる真実を追求すべくふみえの故郷の淡路島へ飛んだ主人公とヤスは、彼女に生き別れた兄がいたことを知る。その兄の肩には蝶のアザがあったという。淡路島から神戸に戻った2人は耕造の自宅の地下室で古い日記をみつける。その日記には、過去の悪行への後悔の言葉に加え、彼自身がふみえの正体に気付いていたこと、気付いた上で彼女に遺産を残すために仕事に精を出していることが書かれていた。ヤスは「もし、ふみえの兄が犯人だとして、この日記のことを知ったらきっと後悔するでしょうね」と声を震わせた。

捜査本部に戻った主人公はヤスに最後の命令をする。

「なにか とれ > ふく」

すると彼の右肩には大きな蝶のアザが浮かび上がっていた。

***

というわけで犯人は相棒のヤスであった、という衝撃の展開で物語は幕を閉じる。

主人公やそれに類する登場人物が犯人、という展開は「信用できない語り手」と呼ばれる手法だが、それをファミコンのごく初期の推理アドベンチャーゲームで利用した堀井雄二のセンスには脱帽だ。小説や映画とゲームの根本的な違いを利用して「ヤス」という助手的なキャラクターを生み出し、彼に物語の核心を語らせる。さすがにこれ以上は別の話になってしまうのでいつか別の機会にとっておきたい。

今回のコラムのタイトルにもある「犯人はヤス」は「犯人は身内」あるいは「物語のネタバレ行為そのもの」を示すいわゆるネットスラングだ。シンプルかつあまりにも唐突なこの言葉は本作をプレイしたことのない層にまで浸透した。しかし上記のように本人の自白(最終的に主人公は「たいほする」を選んでいない)に至るまでの切ないドラマが描かれていることまでを記憶している人は意外と少ないのかもしれない。ポートピア連続殺人事件は「犯人はヤス」の一言で片付けてしまうのは勿体ない名作なのだ。誰にも言えぬ過去を抱えた登場人物たちの想い、かつて悪をなした人物の悔悟、復讐のむなしさ。だからこそ「犯人はヤス」に思う。

「そこじゃあねえんだよ。」と。

そしてゲームの本編だけを振り返っていては気づかないが、このゲームのパッケージには悲しげな目をした女が男にしなだれかかる様子が描かれている。ふみえとヤスだ。そのことに気付くのはヤスの自供を引き出し、パトカーのサイレンの音でゲームが幕を閉じた後、ゲームを箱にしまい込むときだろう。ゲームを始める前に観ていた風景が実はゲームのラストシーンだった、というわけだ。テレビゲームの枠を飛び出した憎い演出。まあある意味これもネタバレといえなくもないんだけど。

***

パッケージでネタバレ、といえば誰しもが思い出すのが「猿の惑星」だろう。地球への帰還の途中で宇宙飛行士たちが不時着した星でみたのは高度な文明を持つ猿が人間を支配している世界。捕まってしまった宇宙飛行士のテイラーは猿とのコミュニケーションを覚え、身にふりかかる危険を振りほどきながら、猿たちのいう「禁断の地」へ辿り着くと、そこでこの星の真実を知り、絶望する。彼が最後にみたのは地中に深く埋まった自由の女神像だった。

その真実とはもちろん不時着した謎の猿の支配する星が実は約2000年後の地球だった、というわけなのだが、後に発売されたDVD版ではジャケットに大きく自由の女神が描かれている。これはポートピア以上のネタバレだ、と話題になった。

しかしこの映画の魅力は「最後のどんでん返し」ではないと僕は思う。主人公のテイラーが“捕獲”された社会はよくみてみるとオランウータンやチンパンジー、ゴリラと様々な種族がおり、どうやらある程度その人種ならぬ“猿種”によって身分が固定されているようにみえる。そしてもちろんその最下層、家畜のような扱いをうけるのが人間だ。ここには人間の抱える人種差別や戦時の捕虜の扱いなど、当時の社会問題がそのまま猿に投影されていることがわかる。

彼ら猿の社会がここまで発展したのは当然のことながら高度な文明をその手で滅ぼした人間たちの遺産によるものだ。しかし猿の社会の指導者たちはその事実に目をそむけ、この文明が猿自らよるものだという偽の聖典を掲げると、人間の痕跡の残る地を宗教的な「禁足地」として封じた。つまりラストに描かれる自由の女神はこの「禁足地」であり、その事実から受ける衝撃は猿社会も同様だろう。この一連のストーリーに僕は進化論を否定し、天動説を信じる一部のキリスト教原理主義者の危うさを感じた。

つまりはこの作品には「衝撃の結末」だけでなく、個人が多勢や社会の常識というものに流されず常に疑いを持つことや、「人種」や「肌の色」で他者を分別するという考え方自体がそもそも差別そのものであることなど、ラスト以上に様々なことを考えるきっかけを与えてくれる。だからこそ何よりも映画を愛する20世紀FOXの担当者は「自由の女神」のDVDパッケージにこんなメッセージを込めたのかもしれない。

「そこじゃあねえんだよ。」

猿の惑星はその後も人気シリーズとなり、続編やリブート含め映画だけでも9作品が公開されている。2年前に完結した最新の3部作は猿側の英雄シーザーを主人公とし、猿が自由を求め人類に対して聖戦をしかける物語だ。つまりテイラー達が宇宙にいる間に地球で起こった出来事を描く。こちらもオリジナルに負けず劣らずめちゃめちゃ面白いのでおすすめです。

***

「続編やリブート」、「人類との聖戦」といえば、先日最新作が公開された「ターミネーター」シリーズの話をしないといけない。オリジナルであるT1だけを「聖典」とする人も世代によってはいるが、ファンの中には「T2」までを正史と捉え、その後に続いた「T3」「T4(サルベーション)」、そして5作目にあたる「新起動(ジェニシス)」を軽視、あるいは失敗作とする人も多い。いやいや、3も4もしっかりアクションやドラマ性を兼ね備えた良作だと思うのですが。

そんなわけで最新作「ターミネーター:ニュー・フェイト」は「新起動」から4年ぶりのシリーズ新作にも関わらずみんな大好き「T2」の正当な続編というのをやたら強調してプロモーションされた。僕自身は大変満足する出来だったのだけど、T3以降の3作をなかったことにしようとしてる割にはそれらへのオマージュ的な要素があまりにも多かったので、そこは「みんな兄弟でいいじゃん」という気分だ。

「新起動」から4年ぶり、と書いたが、実は僕は去年劇場でターミネーター作品を鑑賞している。それがほかならぬ「ターミネーター2」だった。昨年2月に行われた「さよなら日劇」という有楽町のTOHOシネマズ日劇閉館イベントで本作が上映されたのだ。ここはまさに僕が中1だった日本劇場時代に実際に「T2」を観た思い出の場所。27年ぶりに同じ場所で観るT-800と液体金属 T-1000の戦いに僕の心は中学生に引き戻された。

T2にも「犯人はヤス」「自由の女神」のように記号化された名場面がある。「溶鉱炉に沈みながら親指を上げる」シーンがそれだ。あまりにも有名なそのシーンは漫画や漫才、コントなどで数多くパロディの対象となった。そもそもターミネーター自体がそのあまりにも強いアイコン性ゆえに続編自体がセルフパロディにみえてしまう。時にはあのテーマ曲すら聴くだけで失笑してしまうこともあるのが正直なところだ。

だが去年劇場でこのシーンを観た僕はうっかりマジ泣きしてしまった。やはりこれは劇場のマジックというか、作品のストーリーに対する没入度、集中力が普段とは違うということなのだろう。今までDVDやBlu-rayで観る機会は多かったが一度もそんなことはなかった。

前作では殺戮マシーンとして登場したシュワルツネッガー演じるT-800が、今度は指令通り未来の指導者である少年ジョンを守り抜く。その過程で人の心を理解できないはずのT-800が少年と心を通わせ、まるで不器用な父親のような存在に変わっていく。自分自身を破壊することでこの戦いに終止符を打つことを決意したT-800は自ら溶鉱炉に沈み、まるで「未来はもう大丈夫さ」とでも言うかのように親指を立てながら火の海に消えていく。

この「親指を立てる動作」はメキシコでの束の間の安息のシーンでジョンが教えたものだが、実は母親のサラが考え事をしているモノローグの向こうで映像として映されるだけで一切2人のセリフはない。その動作だけのやりとりに込められたメッセージを、最終的にまた無言の動作に集約して観客の涙を誘うこの演出の上品さがジェームスキャメロンの名監督たる所以だろう。なので、この「親指を立てながら溶鉱炉に沈む」というフレーズをなんとなく「感動的なシーン」という記号として大喜利的に使ってる人をSNSでみかけると、やっぱり

「そこじゃあねえんだよ。」

と思ってしまうのだ。めんどくさい性格だ。

***

このように作品自体の出来が素晴らしいがゆえに一部がアイコン化してしまったり、陳腐化してしまう、というのはもしかしたら名作の宿命なのかもしれない。だがそこだけが切り取られて奥行きを無くし、いつしかちょっとした有名なワンシーンみたいなところに収束するのはやはりなんだか勿体ない気がするのだ。そもそもこれらの作品も意外と「観てない」という人も多いだろうし、一度観てみるといろいろな発見があって面白いかもしれない。あらすじや批評、「10分でわかるまとめ」じゃなかなか伝わらない魅力がきっとあるはずだ。そしてこんなことをいう僕自身も実はモノクロ時代の映画は不得手で、名作と呼ばれる作品でも観ていないものがまだまだたくさんある。せっかくこんなコラムを書ける場をいただいているのだから古典的な作品にも多く触れていきたいとあらためて思った。

ここまで書いて気付いたのだけどポートピア連続殺人事件は現行のゲーム機ではプレイできないのだなあ。最後の携帯向けリメイクからも15年近くたっている。何か事情があるのだろうか。容疑者を殴って吐かせるシーンがあったり、リカちゃん、バービーなどの固有名詞が登場するせいだろうか。

そう考えるとVHS、DVD、Blu-rayや配信と形を変えながらもいつまでも過去の名作が楽しめる映画は本当に頼もしい存在だ。文化はアーカイブされて初めてその意味をなすのだと痛感する。テレビやゲームや、あるいはインターネットそのものについても、もう少しアーカイブ化する意義について考えるときが来ているのかもしれないですね。

最後の結論、「そこかよ」って感じですが。